喫茶の伝播と変遷:アナトリア・バルカン地域を事例として(2009)
A Comparative Study of Tea and Coffee Cultures: Anatolia and the Balkans as Examples(2009)
第三章:原産地周辺と伝播概略
現在では世界各地で気軽に飲むことのできる茶やコーヒーであるが、16世紀前半まではアジアやアラブ、アフリカなど一部の地域において飲まれていた地域的な飲料にすぎなかった。そして、ヨーロッパ諸国に伝わるのが、16世紀後半以降の「大航海時代」と呼ばれる時代であり、それらは珍しい東洋の品の一つとして伝わった。この東洋の珍奇な品は、ヨーロッパ社会の上層階級において富の象徴、ステイタス・シンボルとして流行していく。その後、18世紀後半までにはオランダやフランスの植民地にコーヒー農園が作られることでコーヒーの輸入量が増大する。イギリスにおいては東インド会社による中国茶の輸入量の増加によって、価格の低下がおこり、「茶」を飲む習慣は労働者階級の日常生活にまで浸透、定着していった。原産地周辺やヨーロッパ以外の世界の多くの地域の人々に茶やコーヒーが普及し、現在のように日常的に飲まれるようになったのは19後半から20世紀という比較的新しい時代の出来事であった。この16世紀から20世紀の400年ほどをかけて、世界各地の日常生活に取り込まれるなかで、喫茶はそれぞれの地域の習慣や文化と融合し、地域独自とも言える飲み方やいれ方、作法や茶道具などの多様な喫茶が形成されている。それは、日本の茶道や中国の茶芸、エチオピアのコーヒー・セレモニー、イギリスなどのコーヒーハウスやティーハウス、アフタヌーン・ティーとして、現在では伝統的ともみなされる地域文化も生み出してきた。このような、喫茶がどこで始まり、いつ、どのように周辺地域に浸透、定着していったかを伝播の概略として時間軸から捉えるとともに、その世界的な伝播の経路についてもまとめていく。
1.原産地と周辺地域への浸透
茶やコーヒーが原産地から周辺地域にどのように広がっていったかをみておくことは、17世紀以降の政治・経済的な要因が重要さを増し、世界商品として多様化が進む時代以前における喫茶の時間・空間的広がりを捉えることになる。
この原産地において実際にいつ誰が飲み始めたかという起源については、明確にすることは不可能であり、喫茶の伝播や変遷とは別の問題であるため詳論しない。しかし、茶では神農、コーヒーではモカの聖者アリー・イブン・ウマル(*26)というように伝説の人物にそれぞれの起源が結びつけられていることが多い。こうした伝説化も、伝播、浸透の一つの要因ととらえ、周辺地域への浸透をみていく。
(1) 茶の原産地周辺域への浸透
中国雲南省西双版納(シーサンパンナ)。茶の原産地と言われるこの地は「茶樹王」と呼ばれる樹齢600年(*27)を越えると言われる古木が存在している茶樹の生育に適した照葉樹林帯である。この雲南省を含む照葉樹林帯は四川、貴州、広西やミャンマー、ラオス、ヴェトナムからタイ北部までの広がりをもつ。
この照葉樹林帯では、カメリア・シネンシスの茶樹の茶以外にも、エチオピアのコーヒーの葉茶、アラビアのカート茶、南米のマテ茶など、植物の葉を嗜む習慣という意味で類似のものが世界各地の照葉樹林帯にはあり、葉に湯を注ぎ、飲むという習慣はおどろくばかりの変異の豊富性をもってあらわれている(*28)。
茶の原産地である中国西南部からヒマラヤ地域においても茶だけではなく、「Ku-ting-cha(苦丁茶、学名:Ilex kudingcha、Ligustrum robustum)やCha-kuo-tzu(学名:Pyracantha crenulata)」(*29)などのようにさまざまな植物が茶として飲まれている。また、現在もこの地域で暮らす人々は茶樹などの葉を嗜好品として飲むだけではなく、「食べるお茶(:30)」としてタイ北部のミエンや、ミャンマーのラペソなど漬物のように加工して食用ともしている。このように喫茶飲料としての茶は「照葉樹林帯の中でいろいろの植物の中から選びだされたもの」(*31)であり、原産地域の生活の中で生まれた独自の食習慣である。
現在では世界各地で飲むことができるようになっているカメリア・シネンシスの茶であるが、茶を飲む習慣が早い段階で定着した中国では、紀元前2000年ごろ、伝説上の三皇五帝の一人神農が薬草として茶を人々に広めたとされる。実際には「三国時代の呉の朝廷に茶が常置されていたと考えられ、(中略)西晋時代の四川省の成都で、茶が飲用の筆頭の地位占めている」(*32)といわれており、3世紀ごろには上層階層の間は飲用されていたようである。
そして唐(618~907年)の開元・天宝の時代(713~756年)には都市部の庶民にまで「茶」を飲む喫茶の習慣が浸透し、喫茶文化が生まれていった。そして、「茶聖」と称される陸羽(733~804年)によって『茶経』(760年ごろ)が書かれ、茶樹や茶道具、茶のたて方、飲み方が解説された。唐代以前は「茶」の漢字に「荼」「茗」などが当てられていたものが、唐代になり「茶」という漢字に統一されたとも言われる。また、「貞元九年(七九三年)に(中略)商品としての茶に課税したようであって、その課税に当たっては、茶に三等のランクを定めて、十分の一税を課した」(*33)とあるように、喫茶の習慣が唐代には人々の生活に浸透しており、茶の消費量が多かったことを物語っている。
そして、唐代に書かれた『封氏聞見記』(*34)において、「飲茶が(開元年間713~741年に)禅寺より広まったとする説を述べ、次に茶が南方から運搬されてくる様子を記し、その後遂に喫茶が風俗までなったこと」と、「飲茶は中国本土から塞外の遊牧民族にまで伝播し、先年、回鶻が入朝した時以来、多くの名馬を引き連れてきて、それで茶を買って帰るようになった」(*35)ということが安史の乱(755~763年)と関連付けられ述べられている。このことから8世紀には中央アジアへ「茶」が伝播し、習慣として浸透していたことが考えられる。しかし、どのように飲んでいたかや道具類ついては、「ウイグル内の喫茶状況については、徴すべき資料がない」(*36)ため不明である。
また当時、唐から吐蕃と呼ばれたチベットの王国は、唐の皇女である文成公主を妃として迎え入れ(641年)、シルクロードを勢力圏に置いていた。そして、安史の乱の混乱に乗じて長安を一時占領(763年)するなど中国文化との接触が深まるにつれ、その導入も進み、喫茶の習慣もあわせて浸透し、7、8世紀には四川からチベットへの茶馬古道と呼ばれる交易路も確立していったと考えられる。
そして、日本には7、8世紀頃、「平安時代初期の唐への留学生であった最澄、空海、永忠が茶(団茶と言われる固形茶)および、茶の実を持ち帰った」(*37) といわれる。その後数百年の間をおいて、「鎌倉時代以来、禅宗と結びついて武家階級に普及し、室町時代末期以降には町人階級にも広まって「日常茶飯事」の茶となった」(*38)と言われる。
以上のように、茶は現在の中国雲南省周辺の地域的な習慣であり、ローカル・コンサンプションであったが、徐々に中国の生活の中に浸透していった。そして、長安など当時の中国の中心地域において需要が増すとともに、その供給量も増したことで、価格が下がり、8世紀の唐の時代には庶民でも気軽に飲める茶となっていったことが分かる。
そして、周辺国は唐という大帝国の先進文化や技術を吸収するために遣唐使などの使節を送り、また公主を迎えるなど文化交流が進んでいた。その文化の一つとして各国の使節は唐の庶民にまで行き渡っていた喫茶の習慣や喫茶文化も知ることになり、周辺国では中国風に茶宴を楽しむことが支配階級の流行となり、先進文化への憧れともなった。このように、茶は先進文化の一つとして、周辺国へ伝わり、アジア圏世界における世界的商品となっていたと言える。
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【引用・参考】
(*26)臼井隆一郎 1992,p.5
(*27)布目潮渢 2001, p.11
(*28)中尾佐助 1966, p.70
(*29)同上, p.71
(*30)守屋毅 1992, p.36
(*31)中尾佐助 1966, p.72
(*32)布目潮渢 2001, p.84
(*33)布目潮渢 2001, p.111
(*34)封演著
(*35)布目潮渢 2001, p.109
(*36)同上, p.214
(*37)角山栄 2005, p.21
(*38)川勝平太 1991, p.31