喫茶の伝播と変遷:アナトリア・バルカン地域を事例として(2009)
A Comparative Study of Tea and Coffee Cultures: Anatolia and the Balkans as Examples(2009)
第四章:浸透、定着要因と文化、社会への影響
(5) 植民地支配の喫茶への影響
現在、世界で最も茶の消費量の多いインド(*161)であるが、19世紀においてはインドの人々に茶を飲む習慣はなかった。1830年代以降、イギリスによってアッサムやダージリンに紅茶農園が造成され、紅茶の生産量は増大していたが、全てイギリスへの輸出品となっていた。現在見られるようなインドのチャイは、どのように浸透し定着していったのだろうか。その要因として考えられるのが、20世紀前半のイギリスによる紅茶のインド市場の開拓がある。それは、イギリスの「インド紅茶協会」(*162) によって1900年に入ってから進められ、その結果として1919年には紅茶を飲む習慣がインドに定着していたと言われる。
その販売促進運動のキャンペーンには、当時イギリスが作っていた鉄道網が利用され、「紅茶協会は契約者にやかん、カップ、紅茶の包みを持たせて電車や駅でチャイを売った。」(*163) そして、「インドにおける飲茶の方法は(中略)イギリスから輸出された習慣の影響がきわめて強いし、イギリス人の推奨を受けて初めて本格的に広まった」(*164)と言われるように、インド紅茶協会はイギリス風の紅茶の飲み方を喫茶文化という一つの形式として導入を図った。しかし、販売を委託されたインド人は、イギリスのティーをベースに、インド人好みにアレンジし、インドの人々に好まれる甘く、ミルクがたっぷり入った、スパイスを加えることもあるチャイとして販売した。それはイギリスだけでなく、アラブ圏や隣のチベット圏の飲み方とも違う、南アジア独特のチャイであり、それゆえインドの人々の生活に定着することになったと考えられる。
イギリスの紅茶市場の開拓はスワヒリでも行なわれた。茶以前のスワヒリの朝の飲物は、ウジ(uji) (*165)であったが、イギリスの茶と砂糖を東アフリカ植民地で消費させようという植民地統治政策によって、スワヒリは茶を飲むようになった。現在では朝は砂糖をたっぷり入れた紅茶を飲む(*166)という報告があるように、インド以外の多くのイギリス植民地において、イギリスの植民地政策のもとで紅茶を飲む習慣が浸透し定着していったと考えられる。
また、「コーヒーの主要な生産国、ケニア、タンザニア、ウガンダはコーヒーの国内需要は少なく、ほとんどは輸出に回され、民衆の飲むのは紅茶となっている」(*167)というように、外貨獲得のための政策の結果としてコーヒーよりも紅茶が生活に定着せざるを得なかった国もある。
これらの事例から、旧植民地の宗主国だけでなく、現在の国家の経済政策の影響によっても喫茶の飲料が決定され、生活に定着することも多く起きていると言える。
(6)工業・技術との関連 ―ミルクティーと器について―
イギリスの紅茶がミルクティーとしても親しまれるようになった要因の一つとして、1860年代末に冷却機械が開発され、生ミルクを鉄道で運ぶことが可能になったこと(*168)があげられる。ミルクの保存、運搬技術の進歩は新鮮な生ミルクを都市部の大衆に届けることになり、それが19世紀の紅茶の消費量増大の一因ともなったといわれている。
そして、イギリスにおけるティーカップなどの陶磁器については、「17世紀以降に輸入されるが、その模倣に成功するのは18世紀になってからであり、特にイギリスで大量生産されるようになるのは1784年に茶の関税が119%から12.5%に引き下げられて茶の消費が増大し、陶磁器の需要が喚起されてからのことであった」(*169)と言われる。ここから陶磁器産業が発達するには、茶の需要の増加という要因も関連していることが分かる。
また、世界各地の喫茶店や食堂などで茶やコーヒーを飲む際にガラス製のコップが使われることも多い。それは、「植民地時代に輸入品のガラス製コップが飲物一般の容器として普及した事情による」(*170)と考えられる。また、酒のグラスに関してではあるが、「1920年代には、ガラス器が大量に安く作られるようになって普及し、酒は、味覚だけでなく、視覚によって鑑賞されるものとなった」(*171)。この工業の発達とともに作られる美しい器は茶やコーヒーを飲むことに、味や香り、効能だけでなく、見た目の美しさを楽しむことも加えることになったと考えられる。
例として、トルコの紅茶グラスであるチャイバルダーウはチューリップ形の美しい形状をしており、紅茶の赤さも映えるものがある。現在トルコの庶民のチャイハネからレストラン、また日本のトルコ料理屋まで、トルコのチャイを飲む際に欠かせないグラスとなっている。これは、20世紀になりトルコのガラス工業の発展から、量産されたものであり、現在ではトルコの喫茶を構成する要素として定着している。このグラスは、トルコから輸出されて、隣国イランでも多く出回っている。また参考7のようにモロッコからシンガポールなどのムスリム街に至るまで、広くイスラーム圏において販売されており、トルコ以外の地域における喫茶においても構成要素となっている。このように工業の発達による新たな製品の開発は、近代においては、その生産力とともに商業的利潤を大きく伴うために、一つの国の喫茶の要素を短期間に変える可能性があると言える。
以上、様々な要因を取り上げてきたが、その他にも多くの要因があると考えられ、今回取り上げた要因についても、さらに詳細の検証が必要であろう。しかし、これまでの考察から、様々な要因が相互に関連し、多くの地域との関連や時代背景のもとで、喫茶の浸透と定着があり、時間をかけて現在見ることのできる多様な喫茶文化が生まれたということが理解されよう。
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【引用・参考】
(*161)2003年時、665,692トン(FAO)
(*162)リジー・コリンガム 2006, p.247
(*163)同上, p.255
(*164)シドニー・W・ミンツ 1988, p.213
(*165)ウジとはモロコシや米を煮たスープあるいは重湯状の食品
(*166)石毛直道 2009, p.13
(*167)同上, p.269
(*168)松下智 1999, p.222
(*169)川勝平太 1991, p.33
(*170)石毛直道 2009, p.287
(*171)海野弘 2009,p.214