■研究1:喫茶の伝播と変遷4-5

喫茶の伝播と変遷:アナトリア・バルカン地域を事例として(2009)
A Comparative Study of Tea and Coffee Cultures: Anatolia and the Balkans as Examples(2009)


第四章:浸透、定着要因と文化、社会への影響

5.文化、社会への影響

 喫茶は19世紀の終わりになるまで世界の多くの人々にとって未知の習慣であったと言える。ここでは、この新しい習慣を受け入れることで、それまでの生活パターンや既存文化にどのような変化や影響があったかを考察する。

(1) 生活への影響

 喫茶の浸透と定着が人々の社会生活に与えた影響を日本とイギリスの例から見ていく。まず、日本だが、岡倉天心は次のように述べている。

 茶のはじまりは薬用であり、のちに飲料となった。中国では八世紀になって、茶は洗練された娯楽の一つとして、詩の領域に入った。十五世紀になると、日本で、審美主義の宗教である茶道に昴められた。茶道は、日常生活のむさくるしい諸事実の中にある美を崇拝することを根底とする儀式である。社会秩序のロマンティシズムを、諄々と心に刻みつける。(中略)日本が長いあいだ世界から孤立していたことは、内省に資するところ大きく、茶道の発達にきわめて好都合であった。われわれの住居と習慣、着物と料理、陶磁器、漆器、絵画―文学―ですらあらゆるものが、茶道の影響を蒙ってきた。日本文化の研究者ならその影響の存在を無視することは不可能であろう。茶道は貴婦人の居間に浸透したし、身分いやしい者の栖(すみか)にも入った(*172)  

 日本の茶道は、中国から茶を導入した後、日本のなかで独自に発展し喫茶文化となったものであり、日本人の芸術、文化だけでなく、生活に深く浸透し、現在の日常生活の規律にも影響を与えているという。
 イギリスにおいては、17世紀頃のコーヒーハウスは自由気ままに様々な人間が出入りする空間であった。しかし、そこにも利用規則というものは作られ、けんかや宗教問題を議論すること、トランプやさいころ遊びなどの賭け事を禁じたほかに、罵声や叫び声を「悪魔の仕業」として戒めるものもあり、総じて秩序は保たれていた(*173)とされる。コーヒーハウスではすべての客はそのルールに従わなければならないが、そこに身分の差はなく、平等に議論のできる場になり、人々が会話能力を鍛える場となり、「近代市民を形作るのに大きな力を発揮した。」(*174)
 また、イギリスにおいては、男性の溜まり場であったコーヒーハウスに対して、女性が集うティーハウスも存在した。トワイニングの店では、女性が茶の知識や優雅さを競い、紅茶を飲む際の作法が作られ、日本の茶道のようなティーパーティーが行われ始めるようになっていた。(*175)

(2) 権力の応答 ―禁令、反対運動の視点から―

 喫茶が生活に浸透していく初期には、1511年のメッカでの禁令がある。1500年ごろにはモスクで飲まれていたコーヒーが庶民に広まり、モスクの周りにカフェができ始めていた。コーヒーは未知の飲物であり、クルアーンに反するかどうかも定かでないものであったが、人々が集まり、酒場のような雰囲気だということからメッカの監督官に禁止されたと言われる。その後、一年ほどで当時メッカを支配していたマムルーク朝によって禁令は撤回されるが、そのマムルーク朝の中心であったカイロにおいても、16世紀中ごろに数日で撤回(*176)されているが禁令が出されている。
 イギリスにおいても1675年12月29日チャールズ2世のもとで、検事総長サー・ウィリアム・ジョーンズがコーヒーハウスの閉鎖を命じているが、10日後には撤回されている。(*177)また、コーヒーハウスに入り浸る学生が増えたことから、オックスフォード大学では1677年、ケンブリッジ大学では1664年に大学から禁止令が出された。
 禁令の一方、イスラーム圏では1550年にスレイマン大帝御典医によって公認され、キリスト教圏では1600年に法王クレメンス8世によって公認された。その後も多くの禁令が出されているが、それは「コーヒーの売買から得られる税収の多さ」(*178) からコーヒーを禁止したいというのではなく、実際にはコーヒーを飲む場を提供するコーヒーハウスを攻撃したものであった。
 喫茶の定着に対して、なぜ禁令や反対運動が起きたのかを検証することで、当時の社会の変化や動性を把握し、社会が新しい習慣に対してどのように反応し、適応していったのか、そのメカニズムを理解できる。禁令が長続きしなかったのは、すでに見てきたように、茶やコーヒーの消費量の増大がもたらす政府への収益源としての重要性が大きく影響していると考えられる。


【著作権】
サイト内の記事の著作権はチャイ専門店 茶窓 木下純平に帰属します。
【引用・参考】
(*172)岡倉天心 1994,pp.13-14
(*173)小林章夫 2000, p.54
(*174)臼井隆一郎 1992,p.75
(*175)トム・スタンジー 2007, p.204
(*176)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.56
(*177)同上, p.144
(*178)永田雄三・羽田正 2008, p.153