喫茶の伝播と変遷:アナトリア・バルカン地域を事例として(2009)
A Comparative Study of Tea and Coffee Cultures: Anatolia and the Balkans as Examples(2009)
第五章:喫茶の類縁性と多様性 ―アナトリア・バルカン地域の事例―
この章では、これまでに見てきた諸要因によって現在の多様な喫茶の習慣や文化がいかに形成されてきたのかを、現在の多様化へと結びつく諸要因を多く含んでいるアナトリアとバルカン地域、特に1900年代以降を中心に検証していく。それ以前のオスマン帝国下の喫茶の浸透については、アナトリアとバルカン半島における喫茶の同質性の形成という面からコーヒーの定着について時間軸にそって概略を述べておく。
現在のトルコ共和国は「言語と民族のるつぼ」(*179)と言われるように、多くの民族が暮らし、それぞれの生活習慣や経済状態も異なる人々から形成されている。現在では一つの国という括りになっているとしても、一概に現状を国単位で一般化できない部分が多いことを示す地域である。そして、国連などからの茶やコーヒーの消費量の統計についても、国単位となってしまうので、各民族や地域における消費動向などを探ることは統計資料からはできない。また、都市と地方の差という問題もあるが、トルコ共和国の地方ではチャイが浸透するまでは「お湯を飲んでいた」(*180)という状況であったので、本章では都市文化として定着していたコーヒーハウスやチャイハネなどについて、イスタンブルという都市を中心に考えていく。
1.オスマン帝国下の喫茶の浸透、定着の概略
(1)エジプトの征服と、紅海への進出(15~16世紀)
16世紀初頭のオスマン帝国は、前世紀の1453年にコンスタンティノープルを落として、新たな首都とし、ビザンツ帝国の遺産を引き継ぐとともに、隣国ペルシアのサファビー朝との争いを続けていた。オスマン帝国はサファビー朝と同盟関係にあったエジプトのマムルーク朝のシリア、エジプトに侵攻し、1517年にはマムルーク朝の中心都市カイロを攻略し、結果的に王朝を滅ぼすことになった。このオスマン帝国の一連の動きは、「イランの主要な輸出品である絹の交易を止めるという戦略であり、イラン産の生糸は、通常、ブルサにもたらされ、生糸のままか、あるいは絹織物に加工され、イタリア商人を通じてヨーロッパに輸出されていた」(*181)ものであったため、ヨーロッパにとっても交易路の安全が脅かされるということも意味していた。このように東地中海において、16世紀はオスマン帝国の拡張期であり、それゆえに政治的に不安定な状況が続いていた。そのため、西地中海のヨーロッパ諸国は東地中海の混乱の回避の必要に迫られ、ポルトガルによって喜望峰回りの新航路がひらかれた。そのポルトガルはインド洋交易圏に進出し、その重要な交易品であった香辛料の貿易を独占しようとしていた。当時の16世紀のインド洋世界では、インド、香料諸島、中東の三角貿易が主にインド系イスラーム教徒の商人によって行われていた。ポルトガル人はこの三角貿易の存在を知り、中継貿易が莫大な利益を生むことを認め、武力で奪い取ろうとした。それに対して、オスマン帝国によって滅ぼされる前のエジプトマムルーク朝のバヤズィット二世はグジャラートと組み、オスマン帝国からも大砲と司令官が贈られ、1509年にポルトガルの台頭を封じようと大艦隊を派遣した。しかし、ポルトガル海軍にディウ沖海戦で敗れ、翌年にはゴアが、翌々年にはマラッカがポルトガルに占領された。その後オスマン帝国によって、エジプトは征服され、1530年代に紅海に面したスエズで新造されたオスマン帝国海軍72隻がインド洋を渡り、1538年にインド西岸のグジャラートのディブに到達した。当時すでにポルトガルの勢力が及んでいたグジャラートへの進出は、在地の王がスレイマン1世に助けを求めたのがきっかけであった。この遠征でオスマン帝国は紅海の出口にあたるアデンを獲得することになり、その後のコーヒー貿易の中心地となるイエメン州の創設につながった。しかし、それ以前、1507年にはペルシア湾とアラビア海との結節点にあるホルムズがポルトガルに攻略され、1543年にその関税権がポルトガルの手に渡ったことで、インド洋交易における力関係は決定的に転換し、三角貿易の基点が中東→ヴェネツィアからリスボン→アントワープへと移動していった。(*182)
オスマン帝国は、16世紀前半にはカイロやメッカというイスラームの中心地であり、コーヒーが人々の生活に定着していた地域に進出していたが、イスタンブルにコーヒーハウスができたのは1555年頃のことであった。それはカイロ占領から30年以上経っていることになる。その原因として、オスマン帝国による征服後もエジプトなどでは、「マムルーク朝の軍員が反乱を起こし、1524年にはイスタンブルからの独立を宣言するに到る」(*183) など不安定な状態が続いていたことも要因として考えられる。
1525年ごろにはオスマン帝国の属国地域となっていたメッカにおいて、法学者によってコーヒーハウスが禁止されている。これはコーヒーそのものではなく、コーヒーハウスで「ヴェールをつけずにコーヒーを売り歩く女がいるなどあらゆる不埒な行為(munkarat)」(*184)がおこなわれているために禁止とされたものであった。しかし、この法学者が亡くなる前にはすでにコーヒーハウスは再開していたと言われる。
また、1539年には、カイロのアズハルからコーヒー反対運動もおきているが、アズハルは16世紀初めにコーヒーを最初に取り入れた場所でもあった。この暴動のきっかけは、コーヒーを禁止するファトワー(*185)を出していたと言われる「アフムド・イブン・アブド・アルハック・アッスンバーティーというシャーフィイー派の学者」(*186)であり、その説教に動かされた一団が暴徒化したものであった。これに対して「カイロのハナフィー派の裁判官ムヒー・アッディーン・ムハンマド・イブン・イルヤースはウラマーの序言によって、コーヒーの飲用は法に触れないとする考えを支持した。」(*187)1544年にも、メッカにおいて「コーヒーの飲用も販売も禁止するというオスマン帝国スルタンの勅令」(*188)があったが、1日しか守られなかったという。
このように、コーヒーは支配者や宗教者によってその成否が分かれ、また左右されやすいものではあった。しかし、禁令や取締りがあっても、「ほとんどの場合は2、3日でコーヒーは再開」(*189)していたと言われる。このことからもコーヒーを飲む習慣は、16世紀前半のカイロにおいてスーフィー教団などの宗教に限定されることなく、すでに人々の生活に定着し、コーヒーハウスは社交の場として機能していたと考えられる。
コーヒーハウスと宗教の問題にもオスマン帝国が干渉することになっていった原因としては、コーヒーハウスが人々の集まる場であるが故に暴動の温床となり、統治の不安定要素となる可能性があったためである。さらに、サファビー朝と戦い、征服することになったエジプトや紅海地域を獲得することで、オスマン帝国がエジプトを含むアラブ世界の支配者となった。このことは、「支配したはずのエジプトやイスラームの聖地の持つ重さを長く、背負っていくことになった。オスマン帝国は、イスラーム世界の「守護者」となったのである。それを正しく実践しているかどうかが、ウラマーに先導された民衆によって判断・評価される。こうしたイスラーム社会独特の「正義」の感覚が、この後、オスマン帝国にも広まっていった。エジプト征服は、バルカンの国として出発したオスマン帝国が「イスラーム化」(*190)深めていく」 ことになった。それゆえに、征服地において政治問題とともに宗教的な問題にも干渉せざるをえなくなり、イスタンブルにコーヒーハウスが浸透する以前のオスマン帝国によっても前述のコーヒーハウスの禁令が出されることになった。このように、初期のコーヒーを飲むという喫茶の習慣との関わりから、オスマン帝国の政治・経済、宗教に対する関わりの変化も見ることができると考えられる。
(2) イスタンブルにおける喫茶の定着とバルカンへの浸透(16~17世紀)
イスタンブルにおいてコーヒーハウスが記録として出てくるのは16世紀の半ばになってからで、「年代記作者のペチェヴィは(中略)ヒジュラ暦962年(1554/5年)に至るまで、首都イスタンブルや帝国のバルカン領にはコーヒーやコーヒー店は存在しなかった。この年、アレッポからハケムと名のる者、ダマスカスからはシェムスという名の者がイスタンブルにやって来て、タフタカレ地区にそれぞれ大きな店を開き、コーヒーを売り始めた」(*191) とある。また、オスマン帝国の高官たちの宴席として「メジュリス」(*192)というものがあったが、16世紀後半以後、コーヒーハウスの浸透とともに市中でも行われるようになった。
このイスタンブルにコーヒーハウスが作られ始めた時代は、オスマン帝国はスレイマン一世統治の1520~1560年の後半にあたっていた。メソポタミア流域やイエメン、北アフリカ、バルカンなどへ拡張し、領域の安定化と、東地中海の覇権を獲得することで交易路の安定化を遂げた時代でもあった。さらに、領土を支配各層が協力して統治する官人たちの国家へと移行し、また、スレイマン一世がメッカ、メディナの保護者として初めて即位した君主となり、イスラーム的統治が支配を性格づ(*193)という点から帝国の転換の時代でもあった。
そして、コーヒーハウスにとっては、「1550年にスレイマン大帝の御典医の出した、鑑定書によってコーヒーは公認され、「イスラームのワイン」の公認は「カーヴェハーネ産業」の飛躍を保証」(*194) することになった。しかし、その後も1580年ごろにはムラト三世によってコーヒーの禁止令 (*195)が出され、「1633年にはムラト4世によりコーヒーハウスの取り壊し。コーヒー、タバコ、アヘンの禁止」(*196) もおこなわれているが、それは次に述べる政治、経済の問題が関連していると考えられる。
1580年代にはオスマン帝国は深刻な財政危機(*197)陥っていた。その原因として、戦争を中心とした支出の増大、新大陸の銀のヨーロッパ経由での流入が原因と見られるインフレの進行、さらには、気候変動による寒冷化でボスポラス海峡が凍結し、農業と経済活動に被害があげられる。
その後、ムラト4世(位1623~1640)が統治した時代には、国内では17世紀前半の権力闘争とイェニチェリの反乱やアナトリア全土を巻き込む「ジェラリー反乱」(*198)が起こり、対外的にはサファビー朝との抗争が続いた。その混乱の収拾のために「社会に対して綱紀粛正を求め、コーヒーや酒、タバコの禁止といった政策を打ち出し、治安回復、綱紀粛正を目指したまれに見る恐怖政治の時代」と言われた。そのため、国内秩序はある程度回復したが、「イスタンブルで、カドゥザーデ派と呼ばれるスンナ派の一種のイスラーム原理主義集団の台頭」につながり、「他宗教の共存するイスタンブルに初めてといってよいほどの宗教間の緊張をもたらした」(*199)。
このように16、17世紀の間、オスマン帝国における国内統治政策の変化にともなって、コーヒーとコーヒーハウスは禁止されるが、しばらくして再開をするという状態であった。しかし、この禁止と再開の繰り返しは、コーヒーとコーヒーハウスが人々の生活に定着するとともに、政府にとっての収入源であったためだと考えられる。
そして、オスマン帝国治下のバルカン半島の各都市部においても浸透は進んでいたと考えられる。バルカンの都市のひとつであるサラエヴォは、現在でも「ムスリム人」が暮らしトルコ系のモスクが建つ旧市街において、トルコ・コーヒーを飲むことができる。このサラエヴォは、イスタンブルからアドリア海のドゥブロヴニクにいたるルートにあたっており、オスマン帝国時代には経済活動とともに、「バルカンのイスラーム文化の中心都市」(*200) としても繁栄していた。そして多くのモスクやマドラサ、神秘主義教団の道場、ハマムがあったと言われる。このような状況は、その他のバルカン諸都市でも見られたようで、アテネも含め、「オスマン治下でバルカン諸都市の発展は目立っている」(*201)といわれ、18世紀までにはコーヒーもバルカン半島に浸透し、都市部においては定着していたと考えられる。
(3) イスタンブルにおけるコーヒーハウスとイェニチェリ(18~19世紀)
18世紀はオスマン帝国の政策が武から文へと移っていた時代であった。ロシア、オーストリア、ヴェネツィア、イランなどとの戦争はあったものの「基本的には防衛的な性格をもち、また、結果は一進一退」(*202)の状態であった。
この時代はヨーロッパ文化をオスマン文化に融合させたモスクや別荘などが多く建てられ、町に多くの泉が作られ、屋外での行楽も流行するようになっていた。そして、マドラサ以外にも独立した図書館が多く作られ、「イスラーム教徒共同体が運営する印刷所」(*203) もできるなど、オスマン文化が花開いていた。このような時代の中で、コーヒーハウスも発展し、その主体となったのがイェニチェリであった。
イェニチェリは、14世紀中ごろにスルタンの常備軍として整備され始め、デウシルメによって徴用された非イスラームの少年(ユダヤ教徒を除く)から組織され、最新の武器で武装した歩兵と砲兵隊であり、スルタンの奴隷として宮殿や兵舎に駐屯していた。
その数は設立当初2000人程度であったが、1609年には47,000人に増加し、トルコ人農民など雑多な人々が加わるようになり、「イェニチェリの世襲化」(*204)も始まった。その結果として、宮廷や兵舎ではなく、市中に暮らす者も多くなり、副業として馬具などの武器の製造や徴税を請け負う者や、さらには用心棒となり、「大都市の任侠無頼の徒に相当する存在」(*205) にもなっていった。そして、18世紀においては、常備軍であるイェニチェリの実数把握も曖昧になる状態となってしまっていた。「1740年には政府がイェニチェリ株の売買を公認」(*206)したことで、イェニチェリと市民の一体化はさらに進むことになった。このような中で、伝統的な免税特権を持つ中流以下の支配層と、商工業者などの都市市民の境界がますますあいまいとなり、一つの文化世界が共有され、彼らの文化世界にも消費文化の影響が着実に進んでいった。その接点として、都市の人々が共有した場として「コーヒー店や、イスラーム神秘主義教団の修道場が上げられ、(中略)18世紀になるとイェニチェリ・コーヒー店」(*207)が加わることになった。
この「イェニチェリ・コーヒー店は町方のイェニチェリが各兵団の組織ごとに開設したもので、その入り口には、兵団のシンボルとなる旗が飾られたという。特別豪華な内装で知られ、通常、見晴らしのよい二階の客席の中央には、噴水が仕立てられた。店には、イェニチェリと関係の深いベクタシー教団のババ(指導者)が常駐し、時には儀式も行われた。ベクタシー教団の支部としての機能をもっていたらしい。(中略)ここで政治談議が、ときに暴動や示威行動まで発展することがあった点はイェニチェリ・コーヒー店の特徴」(*208) であった。
このように、華やかなオスマン文化が花開いていた18世紀から19世紀にかけてのコーヒーハウスは高級官僚が出入りする図3のように豪華なものも多く作られた。19世紀後半には「「西洋化」しつつあるオスマン帝国の新式のエリート、サブ・エリートも、このような西洋風カフェを訪れるようになった。これらの西洋風カフェは「アラ・フランガ」つまりフランク風=西洋風といわれ、ハイカラな文化的シンボル的存在となった。」(*209)
そして、コーヒーキオスクというコーヒーを販売する場所もあり、図4のように海辺にも作られ、人々がのんびりとくつろぐ様子が分かる。また、コーヒーハウスでは「カラ・ギョズという影絵芝居も上映される」(*210) など、単にコーヒーを飲むだけではない文化的な空間でもあった。
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【引用・参考】
(*179)小島剛一 1991, p.58
(*180)一服の情景「ユーラシアの嗜好文化」-たばこと塩の博物館-
(*181)林佳世子 2008, p.113
(*182)川勝平太 1991, p.38
(*183)林佳世子 2008, p.123
(*184)同上, p.53
(*185)「ファトワー(フトワ)」とはイスラーム法学者ウラマーによる勧告、意見などのこと。法的な強制力はないが、発するウラマーの地位によりその影響力が大きい場合もある。
(*186)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.56
(*187)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.57
(*188)同上, p.53
(*189)同上, p.56
(*190)林佳世子 2008, p.116
(*191)同上, p.262
(*192)高級官僚が詩を披露し、批評しあい、詩を越えてつながりを築く場。
林佳世子 2008, p.262
(*193)林佳世子 2008, p.119
(*194)臼井隆一郎 1992,p.33
(*195)ベネット・アラン・ワインバーグ/ボニー・K・ビーラー 2006, p.50
(*196)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.147
(*197)林佳世子 2008, p.209
(*198)同上, p.185
(*199)同上, p.189
(*200)同上, p.233
(*201)林佳世子 2008, p.233
(*202)同上, p.275
(*203)同上, p.286
(*204)同上, p.221
(*205)同上, p.221
(*206)同上, p.274
(*207)同上, p.287
(*208)林佳世子 2008, p.287
(*209)民族学振興会 2009,p.74
(*210)三橋富治男 1994, p.228
(*211)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.176
(*212)臼井隆一郎 1992,p.36
(*213)三橋富治男 1994, p.232